俗に「呉の四大都督」と呼ばれる指揮官(呂蒙の他は周瑜、魯粛、陸遜)の中では唯一の非名門層出身。
孫策の側近に取り立てられ、張昭の推薦で部隊を預けられた。
身分のある家で育ったわけではないため、若いころは武辺の人間で学がなく、見かねた孫権から学問を勧められた。
「忙しいから」と一度は辞退したが、「主君の自分だって忙しいが勉強したのだ」と返されて折れたという。
その結果、本職の儒学者に勝るほどの博学な人物となった。
荊州に居座る関羽の対策を魯粛に問われた際には、すらすらと持論を述べて「呉下の阿蒙にあらず」と魯粛に言わしめた。
これに対して呂蒙が「士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし」(三日も会わなければ人は見違えるものだから、
先入観に囚われてはいけない)と返答したエピソードが有名。
史実では荊州の戦いの時点で病を患っており、荊州を呉の領土にした戦後に容態が悪化して病死している。
しかし「関羽(既に神として敬われる存在だった)にとどめを刺した男」として演義では
関羽討伐戦で活躍した呉将たちがことごとく関羽の祟りで悲惨な末路を辿るその筆頭格として
「勝利の宴席で関羽の霊に取り憑かれると、孫権を罵倒した後に七孔噴血して絶命してしまう」という悲惨な最期にアレンジされている。
特に人形劇三国志での下げっぷりは凄まじく、荊州の領民を見せしめで惨殺したうえ、止めさせるために投降した関羽を
嘲笑しながら殺す良心の欠片もない人物として描かれている。
その最期も赤兎馬を自分のものにしようとしたが乗りこなせず、関羽の仇と言わんばかりに崖下に身投げする赤兎馬に道連れにされるというもの。
同局の大河ドラマなどで悪役にされた人物は凄まじく嫌われる傾向にあるが、呂蒙も例外ではなくリアルタイムや再放送で見ていた世代には
蛇蝎のごとく嫌われる結果となった。
元々、演義では酷い扱いをされているのだが、人形劇三国志での扱いは単に関羽に祟り殺されたというだけではなく、
呂蒙自身の人柄も最悪の人物として改変されており、(上記のような酷い行いの他、同僚の陸遜に手柄を取られないかと戦々恐々とする器量の小ささを披露)
三国志を取り扱った作家たちにどうしてこんな酷い事になってしまったのか、と苦言を呈される始末であった。
比較的正史準拠の蒼天航路や北方三国志ではそのような扱いはされておらず、
蒼天航路では三つ以上の事を同時に考えると鼻血を噴き出して卒倒するというギャグ的な設定を持ちつつも、
周瑜や魯粛の後任として少しずつ成長していく様子が描かれ、その最期も孫権に関羽捕縛の功績を称えられた後、単に病死したと触れられる程度になっている。
蒼天航路においてはクライマックスを飾る事もあり、関羽は樊城の戦いの時期には人知を超越した神として描かれ横山三国志など演義準拠作品よりも強大な存在に描写されているのだが、
その(演出上の)犠牲になったのは演義では強敵として描かれたが、蒼天航路では神と化した関羽にほぼ手も足も出ずかませ犬になっているホウ徳程度で、
作中で孫呉を代表する司令官と描写されていた呂蒙は酷い扱いをされる事はなかった(一応、作中で関平や趙累など関羽の配下から孫呉まとめて卑怯者呼ばわりはされている)。
むしろ、関羽が強大な存在と描かれる事でそれを下し、捕らえた呂蒙の株が上がったとも言える。