呂範の次男。兄が夭折したため跡継ぎとなる。
山越や武陵蛮といった異民族討伐で名を馳せた後、芍陂の役では樊城周辺の敵陣を打ち破った功績で偏将軍に任じられる。
その後、251年に長江が氾濫し城門が水に浸かるほどの水害が起こると、大きな船を繋ぎ止めて被害を防ぐ姿が認められ、盪魏将軍に昇進する。
孫権が崩御し孫亮が即位すると右将軍に任じられ、諸葛恪のもとでは東興の戦いで功績を上げている他、
孫峻がクーデターを起こしトップに立つと驃騎将軍に任じられ西宮のことを任せられる。
256年の魏への侵攻の途中で孫峻が没すると孫綝が勝手に後を継いだとの報を受けてこれに反発。
滕胤を丞相にするよう上奏した上で軍を率いて孫綝の排除を図るも孫憲の軍に阻まれてしまう。
側近からは魏への投降を進められるもこれを拒否して自害。後日一族も皆殺しとされた。
陳寿からは動揺に非業の死を遂げた朱異と共に「親のような欠点は無かったが、時代の変化のせいで命を落とした」と評されている。
(呂範の場合、贅沢を好む性格を欠点とされたか)