人物紹介 / 劉曄


劉曄

後漢の初代皇帝・光武帝の末裔にあたる、由緒正しい家柄の出身。
同じ皇族から繋がる劉氏でも、下民の生活に没落していた劉備と違い、名家のまま評判を保っていた一族であり、劉虞の親戚筋に連なる。

確かな出自と参謀・政治家としての優れた実績を歴史に残す、名実ともに一流のインテリだが、
性格の方は豪胆・剛直だったようで、武人顔負けなほどの気骨ある逸話を持つ一面も。
幼少の頃、母親から「あなたの父の側近は悪人だから成長したら処断するように」という遺言を受けると、12歳のときにその言葉通りに誅殺したり、
鄭宝という悪党が、名家出身の劉曄を旗頭にして長江の南に渡る計画を立てられると、従うふりをして宴会に誘い、その場で斬殺したりしている。

官渡の戦い前後のタイミングで曹操に見出され、以後、曹操、曹丕、曹叡の三代に渡って、優秀なブレーンとして活躍。
特に関羽戦死後、「最強の将を失った蜀に報復の力はない」と見る周囲を押しきって劉備出陣を予言しており、
また蜀と魏を同時に敵に回したくない孫権が従属の使者を送ってくると、
「孫権は信用ならない、今のうちに潰すべき」と進言する先見性を見せている。
もし彼の言葉が聞き入れられていたならば、三国時代はなかったかもしれない。

没年は不明だが、正史とは別の史書によると、彼の非業の最期が記されている。
晩年において、曹叡からも連日連夜、政論の諮問を受けるほど信任が厚かったが、明察な彼の性質を妬んでいた者からの讒言を受け、次第に曹叡から遠ざけられてしまった。
劉曄は、その生真面目な性格から、曹叡に疎まれた境遇に悩みぬき、遂には孤独感のあまり発狂してしまい、日を経たず死んでしまったというものである。

演義では、官渡の戦いの折「霹靂車」というカタパルト式の攻城兵器を考案しているが、新旧含めて本作で攻城兵として登場したことはない。

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