人物紹介 / 劉虞


劉虞

後漢の皇族。光武帝の長男・劉彊の末裔であり、同じく光武帝の血を引く劉曄とは遠い親戚にあたる。

黄巾の乱より前に幽州刺史に任命され、善政を布いて喜ばれていたものの病により一度引退している。
その後、黄巾の乱が終結した後に幽州牧として再び幽州に赴任し、烏桓と組んで反乱を起こしていた張純の対策に当たる。
元々異民族にまでその名を轟かせていた劉虞が烏桓に対して懐柔策を取ると、
長である丘力居は帰順し、張純は逃亡した先で自滅している。
しかし以後も一貫して烏桓に対し穏健路線を貫いたことから、烏桓と敵対する公孫瓚との関係が悪化。
公孫瓚は劉虞が烏桓に贈る報奨を配下に強奪させるなど、劉虞に対し数々の妨害工作を行ったという。

董卓が長安に遷都した頃に袁紹、韓馥から皇帝に就くよう頼まれるが、これを固辞している。
また、この時期になると公孫瓚と本格的に争うようになるが、家臣の進言を聞いて積極策を取らずにいた。
公孫瓚が民衆を盾に城へこもると「余人を傷つけるな。斬っていいのは公孫瓚だけだ」と指示を出したが、
却って交戦を難しくしてしまい兵たちは混乱、敢え無く敗戦し劉虞は捕縛される。
公孫瓚の元へは民からの助命嘆願が殺到したが、公孫瓚は劉虞を市場に晒し、
「お前が皇帝になる人物ならば、雨を降らせることが出来るはずだ」と、夏場の乾季に雨乞いを命令するという
無理難題を叩きつけた。
もちろん于吉のような仙人ではない劉虞に雨を降らせることなど出来るわけもなく、公孫瓚はそのまま処刑を強行。
血筋確かで人望厚い劉虞を殺害した公孫瓚は、袁紹や異民族との対立を深め、民や配下からの信望も激減。
やがて孤立・滅亡へ向かっていくこととなる。

演義では登場しない。恐らくは劉備の同門の先輩として登場する公孫瓚を悪く書かないためと思われる。
(演義ベースの創作では登場することもある)

コーエー三國志では6作目で初登場し群雄の一人となる。
しかし袁紹・公孫瓚の両者に板挟みにされている上に反董卓連合に参加しないため、
一時的に同盟を組む両者に協力して潰される危険性も高い上級者向けの勢力である。

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