人物紹介 / 陸遜


陸遜

諸葛亮と並び、皇帝以外で正史に単独で伝を立てられるという特別扱いを受けている。
正史『陸遜伝』によれば本名は「陸議」であり、正史でも魏書、蜀書ではほとんどこちらの名称で書かれている。
「陸遜」と名乗るようになった理由としては、孫家に帰順した証とも言われるが、「孫」ではなく「遜」となったのは、「遜(へりくだる)」という言葉が意味するように、「自分の能力や価値を低く評価させる」ためとも言われている。
荊州戦以前は内政と山越討伐に専念しており、呉に仕官してから20年近く裏方として務めていた。

表舞台に姿を現した当初は韓当ら歴戦の宿将たちに「白面の書生」と侮られたというエピソードからか、
各媒体で若い風貌の美少年として描かれ、呉の次世代を任されることの多い彼だが、
実は孫策や周瑜・魯粛とは10歳程度、呂蒙とも5歳程度しか違わず、夷陵の戦いの時点で既に40歳とそこまで若手でもない。
彼が次世代に生まれたというよりは、彼の前に呉の中心を担っていた同世代が、相次いで若く亡くなってしまっているのである。

当初は彼と孫権の間の仲は良好でこの二人のラインが機能している頃には
夷陵の戦いの大勝やその後、攻めて来た魏軍にも勝利し、孫権が皇帝に即位するなど、孫呉の最盛期が築かれたのだが、
孫権の三男の孫和と、四男の孫覇の後継者争いが始まると、陸遜は序列を重んじて孫和を推したところ、
孫覇派の者が陸遜の事を孫権に激しく讒言したため、これが原因で次第に孫権とは仲違いし
冷遇されるようになり、最終的には孫権の詰問を受け憤死している。
撤退台詞の「信じてくれないか…」は、このエピソードが背景にあると思われる。

この陸遜に対する誤解は息子の陸抗が晴らし、孫権は涙を流して陸遜に対する謝罪の言葉を述べた上で
陸抗に対し、自分が陸遜に送った問責の手紙はすべて焼き捨ててくれるよう嘆願したという。

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