廬江太守・陸康の子で、陸遜の年下の叔父に当たる。
尚、血筋で言えば彼の一族が陸家の本家筋である。
6歳のとき、父に付き従い寿春に勢力を伸ばしてきた袁術と対面する。
この時おやつとして出されたミカンを母に食べさせようと思い懐へしまったのだが、お辞儀した際にこぼれて見つかってしまい、
袁術に咎められるが母のために持って帰ろうと思ったと正直に打ち明けると感心されている。
この逸話は陸績のものなのだが、ろくでもない逸話しか残していない袁術の数少ない美談ということで袁術の逸話として語られることも。
翌年、陸康と袁術が敵対し孫策に攻め滅ぼされると陸家の本拠地である呉郡に避難する。
孫策が呉郡まで勢力を伸ばすと孫策に仕え、若年であるとして張昭、張紘、秦松ら幕僚の末席に就くが、
軍議で堂々と意見して張昭をうならせるほどの実力を見せている。
ただし、その堂々と直言を述べるスタンスは孫権とは合わなかったようで、周瑜の死後に鬱林太守に左遷されてしまう。
また、鬱林に赴任したあとで娘が生まれており、この地名を取って鬱生と名付けている。
この頃には足が不自由になっており学者としての活動を望み軍務を続けるのは不本意だったとして、
軍務の傍ら『渾天図』を作ったり『易経』『大玄』に注釈をつけるなどの文学活動を行っていた。
天文に精通し、孫権の命で作った暦は魏の暦よりも精度が高かった、
219年に33歳の若さで死去するが、60年後に中華統一が果たされることを予言して亡くなった、
といったちょっと変わった逸話も持っている人物。
演義では赤壁前に諸葛亮に舌戦を挑む降伏派のひとりとして登場するが、論破されるついでに蜜柑を失敬した逸話を揶揄される。
逸話の経緯を考えるとむしろ諸葛亮の方が悪役に見える場面と言えなくもない。