人物紹介 / 陸機


陸機

陸抗の四男で、陸景の弟。
始めは呉に武将として仕え、兄や従弟と共に「三虎」と称されたが、
若年だったこともあり呉ではこれといった事績がなく、主に晋に仕えてから文士・政治家として活躍している。

身の丈七尺、声は鐘のようによく響き、才気溢れ特に文才においては天下有数と言われた生まれながらのエリート。
晋の侵攻により兄である陸晏・陸景を失い呉も滅亡すると、故郷に帰り学問に没頭。
288年に孫策・孫権や陸遜・陸抗らを称え孫晧を糾弾する「弁亡論」を著すと、
これが目に留まったのか晋王朝から招聘を受け、弟・陸雲と共に晋の政治家として仕官することになる。
中原の名士たちは陸兄弟を敗戦国の将・田舎の名士として軽んじており、また陸兄弟も彼らを見下している節があったが、
張華だけは父のように敬っており、張華もまた「呉討伐の戦果は陸兄弟を得たことだ」と高く評価した。

しかし相次ぐ政変に揺れ動く晋王朝にあっては、その運命は決して平穏で明るいものとはなり得なかった。
290年には楊駿に招聘され、楊駿が殺害され賈南風が朝廷を牛耳ると賈氏の当主に当たる賈謐と親しくなり、
やがて賈南風の専横を憎む司馬倫が決起すると、今度は司馬倫に協力してその片腕となった。
司馬倫の天下は長く続かず、陸機も司馬倫の一派として処刑されかかるが、司馬穎に一命を救われ、後に大赦により復職。
その恩により以後は司馬穎につくが、その司馬穎が司馬乂討伐の兵を挙げた際には大都督にまで抜擢されるが、武運尽きてしまったか司馬乂との戦いで大敗。
またこの人事は他の司馬穎の配下たちとの軋轢を生んでいたため、部下に造反され内通の濡れ衣を着せられる。
司馬穎はこの讒言を真に受けて激怒し、一族もろとも処刑されて陸遜直系の子孫は断絶してしまった。
奇しくも祖父・陸遜も讒言が元となり孫権に冷遇され、憂悶のうちに亡くなった事から、讒言は陸遜の一族の天敵だったのだろう。

文人としては古代中国を代表する文学者の一人と言っても過言ではないほどの名声があり、
特に「文賦(ぶんのふ)」は、中国文学史上でも非常に高名かつ重要な作品とされている。
文一筋に生きられればもっと数多くの著作を残せたであろうが、時代と政治の乱れにより、
波乱万丈の生涯と非業の最期とを強いられてしまった悲運の文士である。

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