人物紹介 / 李通


李通

後漢の武将。
元々は汝南の豪族だったが、周辺の豪族や黄巾残党を駆逐・併呑して一軍閥を築き上げた剛腕。
飢饉が発生すると、私財を投じてでも部下と食料を分け合うことで人望を得たという。
曹操が献帝を擁して許昌に入ると自ら参じて配下となり、荊州奪取以前の曹操軍における南方の要として活躍した。

汝南に駐屯している期間が長いためか武功の逸話は多くないものの、武名は広く轟き渡っていたらしく、袁紹や劉表が李通に調略を仕掛けて引き抜こうとしていたとの記録が残る。
活躍の最たるものは209年に起きた江陵の戦いで、周瑜を深追いしすぎたため関羽に退路を断たれた曹仁を救出するべく手勢を率いて突入し、かの関羽の軍勢を突破して曹仁を救出すると言う大功を挙げている。
この武勇は諸将の筆頭であると称えられたが、直後に惜しくも42歳の若さで病没。
曹丕が即位後に追諡し、子孫は晋の時代まで栄達したと言われるなど、一族は末永く厚遇された。
後世の評価も高く、陳寿は李通を臧覇・文聘と言った歴戦の勇将と並び称し、『魏書』で同じ伝に並べられている者は他に許褚・典韋・龐悳(龐徳)らと言った錚々たる猛者たち。
また『三国志集解』では李通が駐屯した淮南・汝南は当時の最前線であり、臧覇の青州・徐州、鍾繇の関中に並ぶ曹操軍最重要拠点であったとしている。

一方で演義では潼関の戦いで登場し、馬超に討ち取られるだけのチョイ役になっている。
「あの李通を倒すほど強い」ということで馬超の勇猛さを箔付けするための演出と思われるが、
そもそも李通の勇猛さを示す逸話が削られているので、あまり箔付けになっていないのが悲しい。
なお正史では潼関の戦いは没後になるため、当然ながら馬超と交戦した記録もない。

各種創作作品では演義での扱いの低さもあってか存在すら省かれる事も多いが、
「蒼天航路」では幼名である「万億」の名で登場し、正史で知られる勇猛さで活躍する姿が見られた。

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