蜀漢末期の名将の一人。また、正史の著者である陳寿とは譙周に師事した兄弟弟子でもある。
若い頃から学問と文才に長けており、皇太子・劉璿の側近にも任じられていた。
清廉な人柄でも知られていたが、そのために黄皓に阿らな~かったことで不興を買い左遷されてしまう。
左遷先の巴東では都督・閻宇の副将となっていたが、魏が侵攻してきたことで閻宇が召喚されると残された二千の兵で守りに就く。
成都が陥落したという噂で城内が混乱するとこれを収め、劉禅降伏が真実と判ると三日間の喪に服している。
蜀の滅亡に乗じて呉が援軍と称して攻め込んでくると、
「蜀と呉は唇歯の間柄であるにも関わらず、呉は利益のみ求めて盟約を違えてきた。
すでに蜀は滅びたのに呉がどうして長く存続できようか。断じて呉には降らん!」
と言って魏に救援を求めた上で徹底抗戦の構えを見せる。
魏からの援軍が来ないまま鍾会の乱による鍾会、鄧艾の死が呉に知れて侵攻が激化したり、城内で疫病が発生したりと不利な状況は半年続くが、部下が脱出を勧めても
「人の主たるものは民衆が仰ぎ慕うものだ。危機に臨んで民衆を見捨てるのは君子のすることではない」
と突っぱね、胡烈の援軍が届くまでを持ちこたえている。
その後は魏に仕えて永安・巴東の守将を続けていたが、魏が晋に取って代わられると中央に仕え、陳寿を始めとする蜀の旧臣たちを推挙した。