人物紹介 / 孟達


孟達

劉璋・劉備・曹叡と3人の主の信に背いた反逆の男。
劉璋が劉備の救援を仰ごうとした際、法正の一味として劉備の出迎えに赴き、そのまま軍勢共々劉備の手元に留まった。
この時点ですでに事実上の劉備配下と化しており、劉備が劉璋と対立の末に撃破し入蜀すると、孟達は宜都太守に任じられる。
元の字は「子敬」であったが、劉備の叔父に劉子敬という人物がいたため、この時に「子度」と改名している。

やがて劉封と組み漢中・上庸戦線で活躍するようになるが、
劉封との仲はお世辞にも良かったとは言えず、配下の軍楽隊を劉封に奪われたという記録が残っている。
そして関羽からの援軍要請に応じず関羽が戦死すると、身の安全を図るため魏に逃亡。
(この時に劉備に対し、春秋戦国〜秦において無実の罪を着せられた武将たちの名を挙げて別れを告げる手紙を送っている)

魏ではなぜか曹丕に気に入られ、同じ車に載せられたりするほど厚遇されてたという。
一方、劉曄や司馬懿は彼を警戒しており、曹丕に「孟達を重用してはならない」と諫言していた。
やがて曹丕が崩御すると彼の立場は悪化。それを察した諸葛亮が北伐に際して反逆するようけしかけたが、寝返りの気配を察知した司馬懿は鮮やかなまでの手腕を発揮。
四倍の兵力をわずか八日で都から上庸まで到達させる神速の行軍の前に、その速度を甘く見ていた孟達はまともな防衛体制を築けず、あっさり討伐されてしまった。

魏将として上庸を攻めた際、かつて大変に不仲であった劉封に対し
「肉親ですらしばしば仇敵に変わる、ましてや血の繋がりのない貴公はどうか」
「貴公は漢中王にとって行きずりの人に過ぎぬ、すでに貴公は疑われている」
などと記した降伏勧告を送っており、必要とあれば私情や旧怨を捨てる計算高さを見せている。
(しかし劉封は降伏勧告を拒否し、結果的に孟達の言葉に耳を貸さなかったことを悔いながら処刑されてしまった)
また演義では、露骨に関羽を見殺しにする際、
「貴公は関羽を叔父と思っているかもしれないが、関羽は貴公を甥となど思っていない」
と、将に対して傲慢な関羽の短所を見事に分析した発言で、劉封に援軍を見送らせている。
この点、麋芳や士仁(傅士仁)とは違い、ただのコウモリ男ではない、それなりに才の回る人物として書かれていると言えなくもない。
司馬懿に討伐される際、演義では道連れとばかりに己の弓で徐晃を討ち取っており、ほとんど最後っ屁ではあるがその武勇も描かれている。

魏蜀の両方で裏切り者となってしまったためか、正史に孟達単独の伝はなく、その事績は他の人物の伝に分散して残るのみ。
またその人間関係も曹丕を除いては「不仲」「警戒」が目立つという、どうにもネガティブなイメージがついて回る人物である。
しかしながら彼当人の立場を考えれば、その行いは必ずしも否定されるべきものばかりではなく、再評価が待たれる人物の一人ではあるかもしれない。

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