呉末期の政治家。
若い頃は一介の県令に過ぎなかったが、この時期に孫皓と仲良くなったことで出世街道に乗る。
孫休が没すると、濮陽興らは遺言に従い孫休の遺児を擁立しようとしたが、
万彧は幼少を理由に猛反対。武官筆頭格の丁奉を味方につけ、孫皓を擁立し即位させることに成功した。
下級役人からの成り上がりであったため、軽蔑されているのではないかとの猜疑心が強く
(実際、孫晧と仲の悪かった陸凱は、その悪政を批判する文の中で万彧を「身分の卑しい小人」と罵倒している)、
孫晧擁立以来ずっと対立してきた濮陽興らを讒言して失脚させている。
しかしその権力や孫晧との関係も長くは続かず、主君と仰いできた孫晧からまさかの譴責を受け、272年に急死してしまった。
『江表伝』では、万彧の側が先に呉の未来を悲観し孫晧を見限るような発言をしていたが、
これが孫晧にバレて毒殺されかけ、毒では死ななかったものの結局自害してしまったと伝えられている。
実際に死後遺族が広陵へ強制移住させられており、孫晧と万彧の間に何かしらの亀裂が生じていた可能性は高いと思われる。
演義では、暴君と化した孫晧を諫めるものの逆に殺されてしまった臣下の一人として名前のみが登場する。