魏、呉の二国に使えた武将にして文鴦、文虎の父。
曹操の代で既に仕えていたらしく、魏諷の乱では魏諷に同調していたことで連座して処刑されかけたことが記されている。
曹叡の代になると出世していくが、粗暴な問題児だったため周囲からは嫌われしばしば弾劾されていたという。
曹爽とは同郷ということで仲が良かったのだが、同じ派閥の諸葛誕とはこの頃から不仲であった。
司馬懿が魏の実験を握ったあとも処刑されずに前将軍、揚州刺史に任命されるなど厚遇を受けており、
諸葛恪が合肥新城に攻め込んでくると毌丘倹や張特と共にこれを撃退している。
しかし曹芳が司馬師により退位させられると、文鴦、文虎と共に誼を通じていた毌丘倹と組んで反乱を起こす。
司馬師の討伐軍に対して文鴦が奮戦したものの、自身は息子との連携に失敗して敗れ、呉へと亡命する。
呉でも孫峻らトップの人間には気に入られていたものの相変わらず横暴なため、諸将からは嫌われていたという。
その後諸葛誕が司馬昭に対して反旗を翻し呉に臣従を誓うと援軍として赴いたものの、
籠城した寿春城を包囲され孤立すると、元々仲の悪い諸葛誕と対立した末に殺害されてしまっている。