人物紹介 / 馬超


馬超


馬騰の長男にして、演義で五虎大将軍に列された猛勇の士。
演義ではその体格を「虎体猿臂(トラのような体つきにテナガザルのように長い腕)」と書かれており、
腕が長いという表現から弓に長けていた可能性があるものの黄忠と役割がかぶるためか弓の腕を披露する場面は特に無い。

正史では演義と逆に「馬超が反乱を起こしたから馬騰が処刑された」ことがよく知られており、
その後も何度となく配下や家族を見殺しにしながら、血塗られた闘争を繰り返した狂犬のごとき暴勇。
最終的に劉備軍に参入する展開上、さすがにこれは都合が悪すぎるとみなされたのか、
演義では時系列順が改変され、曹操を父の仇として激しく憎悪・敵対する形になっている。
馬超を主役格に据えた創作では演義準拠の流れになる事が多いが、
三国志大戦2の馬超伝では馬超主役なのにしっかり「馬超反乱→馬騰処刑」の正史準拠であった。

フレーバーテキストに書かれている通り益州にも影響を与えていたことから、
劉備は馬超が自軍に加わると聞いた瞬間「蜀が手に入ったぞ」と喜んだという。
劉備陣営に参入してからはこれと言った槍働きのない彼ではあるが、
異民族にも顔が利く馬家の武名により、異民族への抑えとして大変重要な人物であったとされる。
実際、蜀内部でも関羽と同列の将軍位に任命されており、周囲からの評価も高かった事を考えると、
武将としての槍働きよりも政治的に重要な役割を担っていたと考えられる。
その武名や評価は荊州にまで轟いていたようで、
馬超参入の報を聞いた関羽が諸葛亮に「馬超は誰に匹敵するか」と手紙で尋ねたとの記述もある。
(諸葛亮は関羽の性格を考慮して「張飛殿ならいい勝負だが関羽殿には及びませんよ」と返している)

また馬超本人もその武名と血統を笠に着て、劉備を度々「玄徳」と字で呼んでおり、
(主君や年長者に対しては官職名で呼ぶのが当時の礼儀であり、これは劉備を同輩とみなす行動に他ならない)
関羽と張飛がキレて馬超を殺そうとしたという逸話も伝わっている。
しかしこれはかの裴松之ですら「いくら馬超でもそこまで礼節知らずではない」と否定しており、
またこの頃の関羽は荊州にいたはずという観点からも、信憑性は薄いとされている。

また曹操と本格的に敵対する以前に、一時的だが曹操軍に助力していたことがある。
官途の戦いの折、鍾繇の外交手腕により涼州軍閥が大人しくしていたが、
袁紹の甥・高幹、鍾繇の甥・郭援が別動隊として曹操の背後を付こうとして、馬騰も内通しかけるが張既らの説得で味方に引き戻される。
そして龐徳と共に兵を率い、鍾繇の援軍として郭援と戦ったのである。
今後「魏軍の馬超」が出てくる際の元ネタになりそうなエピソードではある。

本人には直接関係ない話ではあるが、ゲームでは馬超役を服巻浩司氏が担当することも多く、
氏の通称としても知られている。
旧三国志大戦でも蜀R馬超や蒼天LE馬超などを担当していたが、今回は担当外となっている。

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