蜀漢後期の貴重な猛将の一人。馬姓を名乗っているが馬超一門や馬良・馬謖一門とは別家。
元の名を狐篤と言い、夷陵の戦いで援軍として駆けつけた時、劉備に従軍していた黄権が本隊とはぐれ魏に降伏していたため、
「黄権を失ったが、狐篤を得た」と評されている。
いわゆる演義で割りを食っている一人でもあり、張嶷ともども南蛮征圧の功績はほとんど諸葛亮のものとされてしまい、
その代わりに祝融夫人に敗れて生け捕られるなど冴えない役回りを押し付けられている。
ちなみに、呉にも同名の別人(こちらは潘璋配下の武将として荊州争奪戦の折、関羽・関平親子と趙累を捕らえた事で有名)がいることが知られている。