袁紹に仕える幕僚の一人。
袁紹配下の謀将の中でも特に評価が高く、官渡で袁紹が田豊の献策を容れていれば勝っていた、とも言われる他、
後世において「田豊、沮授は前漢の張良、陳平に匹敵する」とも評されている。
ただし荀彧からは「剛直で上司に逆らう」と評されており、頑固な一面もあったようである。
その剛直さが袁紹とは合わなかったのか、数々の献策も活かされないことが多く、
長安から脱出した献帝を迎え入れようと進言しても却下され、
曹操が徐州を奪取した劉備を攻めている隙に許都を襲撃しようと言ったときには息子の病気を理由に拒否されている。
投獄された後に袁紹が官渡で敗北すると、田豊に笑われるのではないかと疑ったことで殺されてしまう。
(上記のことを逢紀が讒言したとも言われている)
なお、三国志大戦をはじめ各種メディアで田豊が出て来る時は大抵老人の姿であるが、
実際の所生年は不詳であり、袁紹の下で活躍していた頃に若年であった可能性もあるのだが、
これはどうやら「自らの献策が袁紹に受け入れられずに好機を逃した際、杖を叩きつけて悔しがった」と言われる一件で
杖を使う=老人のイメージがついてしまった所為と考えられている。
三国志大戦1では、追加された際に彼の計略に致命的なバグがあり一時使用停止になった事がある。
その際に誰が言い出したか、官渡の戦いでの史実に準えて「投獄」されたと言われていた。
これが三国志大戦シリーズではバグによる唯一の使用停止であり、
兄弟作の戦国大戦で使用停止があった際にも田豊同様に対象武将の史実に準えて「出奔」「療養」などと言われるなど、
非常に大きな影響を残した。
現在でも一部プレイヤーには「投獄」が使用停止の通称として使われている。