作品によっては「張疑」「張儀」とも書かれる武将。劉備が蜀入りした後に仕える。
馬忠の副将として南蛮征伐や北伐時の対羌族戦で活躍した他、人物眼にも優れており、
費禕の無警戒さをたしなめたり、合肥への侵攻を強行する諸葛恪に(諸葛瞻を通じて)取りやめるよう忠告したりしている。
(どちらも言うことを聞かなかったため死につながってしまったが)
史実での死に方は凄まじく、病身を押して従軍すると徐質の部隊と交戦し、自身は戦死するも倍以上の損害を与えた上に徐質も討ち取っている。
正史では特に異民族の統治に活躍し、善政を布いたため大いに慕われたとされる。
彼が成都に呼び戻されることになった時、異民族の民は彼の車にすがって別れを惜しみ、王たちは彼に従って蜀に朝貢し忠誠を誓った。
そして徐質との戦いで彼が陣没したとの報が異民族にまで届くと、恩顧を受けた多くの異民族は涙を流して慟哭を繰り返したという。
演義では南蛮征伐の功績を諸葛亮に持っていかれてしまい、いささか損な役回りではあるのだが、
諸葛亮死後の北伐で魏軍に包囲された姜維を救うべく突撃し、矢の雨を浴びて討ち死にという正史にも劣らない最期を描かれている。