張承の娘で孫和の正室。
母は諸葛瑾の娘であるため、諸葛恪の姪にあたる。
孫和が二宮の変の余波で自害を命じられた際に「どこまでも、お供いたします」と言ってこれに殉じたのだが、
実は諸葛恪の失言が死を賜る原因になったともされている。
夫が太子を廃され孫亮の代になった後、黄門・陳遷を皇后や諸葛恪の挨拶に遣わしたが、ここで諸葛恪が
「お妃様にお伝え下さい。何者にも勝る立場にてお迎えいたしますので」
と伝えたことが発覚している。
この発言に加え、諸葛恪は遷都のため武昌を整備していたことから孫和を復権させて迎えるのではないかと疑惑が立ち、
孫峻が諸葛恪を誅殺した後、孫和に自害を命じるための名目としている。