人物紹介 / 張春華


張春華

司馬懿の正室にして、司馬懿の跡を継いだ司馬師、司馬昭の母でもある。
晋での諡は「穆皇后」、あるいは司馬懿の諡と本姓を足して「宣穆張皇后」。

フレーバーテキストに書かれている召使い殺しであるが、司馬懿が曹操の招聘を受けるようになったのは官渡の直後辺りからであり、
10代前半にしてこのような凶行を思い立ったことになる。
事実であれば、司馬懿でなくとも恐れることであろう。

だが正直なところこの話は虚構の疑いが強い。
というのも司馬懿が出仕を拒否した理由は「漢王朝に反意をもつ曹操になど仕えられない」といった旨が晋書に記載されるのだが、
この時はすでに兄の司馬朗が曹操の出仕を受けていた。
兄が曹操の配下に加わるのを司馬懿がいさめるような記録はなく、また曹操に仕えた司馬懿は大いに能力を発揮しているため、彼の行動に一貫性がないのだ。
三国志よりあとの時代には『漢晋春秋』という、正統な王朝は後漢から晋へ受け継がれた(魏は不当な国家)とする記録物があったので、
司馬懿が曹操を拒否する話はそのような史書による捏造かもしれない。

もう一つの代表的な逸話とされるのが司馬懿が老齢になってからの話で、その頃には司馬懿も若い側室に入れあげるようになっていた。
その分彼女に対する寵愛は薄れていたのだが、司馬懿が病に倒れると見舞いに赴く。
ところが司馬懿に「ババアが今更何しに来た!」と怒鳴られたので、司馬師、司馬昭とともに食を断って餓死しようとした。
もっとも死に至る前に司馬懿が謝罪に来たため、その時点で断食はやめている。だが司馬懿の去り際に「息子たちがかわいそうだっただけだ」と言い捨てており、夫婦仲は回復しなかった模様。

いかにもな夫婦喧嘩ではあるが、高齢な司馬夫婦の息子らは妻子を持っているはずなのにそれらへの言及がないのは不自然。
また、ほかの后妃の記録と比べて、わざわざ取りあげる必要のない家庭内の些事である点も違和感をぬぐえない。
これらの記録の底本は唐代の晋書であり、唐の時代は夫婦喧嘩がわりとよくあることだったので唐人の創作話の可能性がある。
また、張春華はそれ以前にあった古い晋書には記録の痕跡が一切ないことから、名前や略歴などはすべて後世人のでっち上げだとする見方もある。

実際の所、司馬懿との夫婦仲は後年まで良好だったようで、司馬懿の七男・司馬榦は彼女が43歳(司馬懿は53歳)のときに産んだ子(司馬師とは24歳差)である。

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