陸遜、朱桓、顧雍らと並ぶ「呉の四姓」の出身。
父・張允(劉表配下の人物とは別人)の代から孫権に仕えており、劉基、顧雍、張昭といった名士たちからも絶賛された。
32歳のときに蜀へ使者として赴くとそちらでも諸葛亮などから高く評価されたが、帰国後に蜀の政治を賛美したことで孫権の不興を買ってしまい、自身の推挙した曁艶が人事面で専横を奮った罪で自害に追い込まれたことを口実に左遷される。
左遷後に駱統が弁護するも容れられることはなく、6年後に死去した。
また、自身が着せられた罪に連座して弟・張白も流刑とされている。
同名の別人として、後漢末の廷臣で董卓に処刑された人物が存在する。