孫堅の兄・孫羌の子。
長沙太守となっていた孫堅が兵を挙げるとこれに参加。
孫堅亡き後は孫家の実質的な筆頭として軍勢を引き継ぎ、袁術の上奏で征虜将軍に任命され袁術配下に入る。
袁術配下としては呉景と共に劉繇の討伐に当たるものの苦戦し、撃破には孫策の参戦を待つことになる。
孫策が江東を制覇すると一度袁術のもとへ戻るが、袁術が皇帝を僭称すると見限って孫策に仕える。
孫策没後も孫権に仕え続けてはいたのだが、彼個人としては曹操と敵対する気はなかったらしく、自身の娘と曹彰との婚約を進めたり、官渡の戦いの際に劉表の牽制を夏侯惇から依頼されたり、曹操が荊州を支配すると息子を人質に差し出そうとして朱治に止められたりしている。
官位を得てから11年後に死去したとあり、おそらく死亡年は210年と思われる(豫章太守に任じられたのが199年)。
豫章太守は孫鄰が、征虜将軍は孫皎が継いだとされる。
演義では登場しない。
孫堅と孫策の繋ぎとなる彼が存在しないため、孫堅の遺臣たちは(袁術に吸収されてはいるのだろうが)孫策の独立まで物語から姿を消してしまっている。