人物紹介 / 孫晧


孫晧

孫権の三男・孫和の子で孫呉の四代目皇帝。
三国時代における最悪の暴君として知られる。

父は二宮の変で廃嫡された上に孫亮の代に孫峻により自害を命じられ、正室・張氏もこれに殉じたため、
孫和の側室で自身の生母にあたる何姫によって養育される。

三代目皇帝・孫休が若死にすると皇太子・孫ワンがまだ幼かったことから成人している皇族が後を次ぐことを求められ、
「長沙桓王孫策の気風がある」と万彧に推されて皇帝に即位する。

即位当初は貧民を救済したり未婚の男を宮女と結婚させたりするなど、暴君どころか寧ろ名君といえる程の善政を布いていた。
また、無念の死を遂げた父の名誉回復にも努めており、父に文皇帝を、祖母の王夫人に大懿皇后を追号している。
特に父・孫和に対する愛情は異常なものがあり、父を皇帝として史書に書くよう命じ拒否された韋昭を処刑したり、
父の霊を慰めるため大々的な祭事を連日行い、「あまりに大規模な祭事は死者を冒涜する」と臣下に諫言されてもやめず、
巫女が「孫和様の霊もよろこんでおります」と言ったのを聞きようやく終わらせる程であった。
次第に晋との国力差を知って自暴自棄になったのか悪政に走るようになり、
皇族、群臣問わず粛清しまくったり、派手な宮殿を建てて5000人の女性を後宮に囲ったりと好き放題するようになった。

晋によって呉が滅ぶことになると、憑き物が落ちたのか
「全部俺のせいだから晋に仕えるのは不忠だとか言わないで安心して仕えろ」と部下たちに手紙を送っている。
自身も晋に仕えており、司馬炎の問に対し機智を聞かせた返答をするエピソードが知られている。
同じ亡国の皇帝となった晋の三代目皇帝と四代目皇帝が屈辱を与えられた上で処刑されたのを考えると幸運な方だと言える。
能力も気概も見るところの無い劉禅とは対照的に、才覚も気概も行動力も備えていたがゆえに暴君となる程に病んでしまった(かのように見える)のは歴史の皮肉と言うべきか。

とはいえ、正史の注釈を書いた裴松之には「孫権が晩年ボケなかったとしても
孫和・孫晧と皇帝が続き孫晧の代で暴政やって呉は滅んでいたよ(意訳)」と評されたりもしており
孫晧の暴君っぷりの評判の悪さは中国ではかなり有名のようである。

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