孫権の三男にして、二宮の変最大の被害者。
対立した孫覇が周りの非主流派豪族に推されての事とはいえ、自ら野心を持って動いたのに対し、
孫和は普通に太子をやっていただけなのに悲劇的な結末を迎える羽目になってしまった。
長兄・孫登が死去した当時は父から可愛がられていたことや、遺言で後任の太子に指名されていたこともあり、
孫登死後の皇太子に就任する。
しかし同年、すぐ下の弟である孫覇が魯王として互角の扱いをし始めたことで暗雲が生じる。
母・王夫人と日頃から仲の悪かった大虎こと孫魯班がしきりに讒言するようになったことで父からの寵愛も薄れ、
さらに群臣らが自身と孫覇それぞれの派閥を結成し争うようになってしまう。
孫和は陸遜、吾粲、諸葛恪、張休、朱拠、施績といった孫呉の豪族たちの中でも主流派に支持されており、
儒教思想に従い長子を後継者にすべしと孫権に意見するも聞き入れられず、陸遜が左遷された末に憤死する事態も起きている。
結局、孫権はどちらも太子にしないという判断を下し、廃嫡された上に幽閉されてしまう。
その後は孫権や諸葛恪が名誉回復しようと動いたが孫峻に阻まれ、南陽王の印綬を没収された上で自害を命じられる。
自身の子である孫皓が帝位につくとようやく名誉が回復され、文皇帝を追号されている。