人物紹介 / 孫策


孫策

演義でよく知られる「小覇王」の異名は漢楚の戦いで漢の高祖・劉邦と争った西楚の覇王・項羽に由来する。
正史の注釈によると、呉郡大守を務めていた許貢という人物が「孫策の勢いは項羽に似て危険だ。討伐した方がいい」
と献帝に密書を送ったとされている(もっともバレて孫策に殺されたのだが)。

また太史慈との一騎打ちは正史にも記されており、正史において一騎打ちを行った記録が残る数少ない人物のひとり。
このとき一介の武官に過ぎなかった太史慈は単騎で哨戒を行っており、孫策は黄蓋ら歴戦の武人を従えた少数精鋭で行動していたのだが、 太史慈が打ちかかってくると孫策は自ら応戦し、互いの兵が駆けつけるまで激闘を繰り広げている。
当時小規模だったとはいえ、一軍閥の長が自ら一騎打ちを行うという例はかなり珍しく、彼の武勇と性格を表すエピソードとして有名。
一方でその武人肌の勇猛果敢さ・剛毅果断さは、一勢力の長としては性急で短慮、苛烈で仁愛に欠ける側面を併せ持つものであり、
名士や配下であっても逆らえば簡単に殺してしまうため、母である呉夫人から「そんなことをしていればいつか災いが来る」「そんな災いは見たくないから、お前がその者を殺すなら私は井戸に身を投げる」とまで言われて心配されるほどであった。
結果、敵を増やしまくっているにもかかわらず単騎で行動していた孫策は、前述の許貢の残党による仇討ちに遭い、わずか26歳にして生涯を終えてしまう事になる。
さすがに本人にも自覚はあったのか、孫権には「お前には俺ほどの武勇はないが、才能ある者を用いて勢力を保つことに関してはお前の方が上だ」と遺言して息を引き取ったとされる。
その通りに孫権はこの後、兄が江東に築いた地盤を、孫呉という独立国家にまで発展させてゆくことになる。

陳寿の人物評では「孫策は傑出した英気を具え、その勇猛さと鋭敏さは並ぶ者がないほどであり、優れた人物を登用して用い、志は中国全土を圧倒するほどだった。
しかし、孫策は軽はずみでせっかちな性格だったので、身を滅ぼしてしまった」
と、優れた才覚を評価しつつも、軽率な行動の多さに苦言を呈している。
同時代の郭嘉からも「あんな奴は勝手に匹夫の手にかかって死ぬ」と読まれている通り、武人としては傑出しているが君主としては疑問、という評価は概ね一致していると言えるだろう。

主だった逸話を見る限りでは武闘派のイメージではあるのだが、知的な面もないわけではなく囲碁を趣味としていたという。
呂範と囲碁を打った時の棋譜が現存する…と言われている。

孫権が帝位に就くと長沙桓王を追号されており、皇帝位を追号された父・孫堅と違い王止まりである。
これは帝位を追号すると当時は孫権に仕えていた息子・孫紹にも継承権が生じるため、それを避けるためとも言われている。

余談だが彼の字にある「伯」とは、中国では長男を示す言葉である。弟の孫権の字にある「仲」は次男を示す。
「実力伯仲」という言葉は長男と次男で力の差がないことから生まれた言葉である。
なお、三男は「叔」であり、弟の孫翊の字「叔弼」にはこの「叔」が含まれる。そして四男は「季」、五男は「幼」である。
(本作には未登場だが、さらに下の弟である孫匡の字が「季佐」である)
また、兄弟で字を揃えたい時は、「子」という字を使うことが多く、三国志の兄弟にこの2つの法則は多くあてはまる。
興味がある人は探してみるとよいだろう。

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