人物紹介 / 孫権


孫権

曹操の魏、劉備の蜀と並ぶ三国志の一角・呉を築いた人物だが、年齢的には曹操や劉備よりも1世代下にあたる。
(父・孫堅が同世代である)
晩年の老害化や下記の酒乱の一面など、いち個人としては君主としての資質を疑われることもあるが、家督を継いだ頃は地方豪族・軍閥の寄せ集めに過ぎなかった孫家勢力をまとめ上げ、ついには独立王朝を建てるにまで至った手腕には疑う余地がないだろう。
演義では当人よりも周瑜・呂蒙・陸遜といった配下の名将たちの活躍が目立ち、またそもそも父や兄があまりに卓越した軍才を持っていたため当人の武勇はあまり目立たないが、
史実では孫権自身も馬術と騎射に長けていたと言われ、宿敵・黄祖の討伐など自ら陣頭指揮を執った戦の数も多く、父・兄の名に恥じない闘将としての一面も持つ。
なおその親譲り・兄譲りの勇猛果敢さ・剛直さのせいか、やらかして危機に陥って配下に救われるという逸話の多さも三国志中トップクラスだったりする。

碧眼紫髯という東アジア系の人間とかけ離れた容貌でも知られており、異民族との混血ではないかという説も囁かれている。
(同母兄弟である孫策についてそのような記述はないのだが)
紫髯については正史にも記述があり、紫というよりも赤みがかった色、つまり茶色に近い色だったという可能性が高い。
また、合肥で張遼が見かけた姿では、短足であったことも記されている。

呂蒙・陸遜の活躍で荊州を併合した後、魏では曹丕が皇帝になり、これに対し、蜀でも劉備が皇帝になったことから
孫権もまた自身も皇帝になる決意をかためるものの、即座に孫権が皇帝になれるかと言えば答えはノーであった。
劉姓でもない孫権は劉備と違い漢の後継者を名乗ることもできず、かといって漢の一臣下として曹丕の帝位簒奪に義憤を持って皇帝を名乗るには官位が低すぎたのである。
そこで孫権は一時的に魏に服従することで皇帝を名乗るに必要な官位を手に入れることを思いつく。
曹操の時代から魏に対して一時的な服従と反逆を繰り返していた孫権に対し、魏内部では信用できずの声が強かったが、何故か曹丕はこの服従を受け入れ、劉曄が止めるのにも構わず孫権に呉王の官位を与える。
同時に曹丕は孫権の長男、孫登にも官位を与えようとしたが、それを口実に息子を人質に取られることを危惧した孫権はこれを拒否している。
その後、息子を人質に差し出さない孫権に対し、曹丕は怒り、軍を向け討伐に乗り出すものの、それらは全て徒労に終わることになる。
そして蜀との同盟も安定してきたと見た孫権は曹丕、劉備に遅れること9年。ついに皇帝に即位する。

対関羽の荊州争奪戦から孫権の皇帝即位までの期間は孫権の全盛期と言っても良く、巧みな外交で常に有利な立場で事に当たり、対外戦争はほぼ常勝を維持し、呉の勢力を飛躍的に発展させている。
しかし、後継者として期待をかけていた長男・孫登の死や忠臣として自分を支え続けてくれていた張昭・諸葛瑾の死を境目に孫権の行動に暗雲が伴いだす。
遼東情勢への介入の失敗や、呂壱事件、二宮の変など晩年の孫権は失態を繰り返し、晩節を汚してしまった。
さらに二宮の変の影響で後継者が幼い孫亮になってしまったことで、孫権の死後、幼帝を傀儡として諸葛恪や孫峻が実権を握るようになり、泥沼の権力闘争が呉を滅びの道に向けて邁進させる羽目になる。
自らの宿敵ともいえる劉表と同様に後継者問題で国が傾く事になるのは皮肉としか言いようがない。

実は張飛をもしのぐ三国志最凶の酒乱として知られており、酒の席での失態は枚挙に暇がないほど。
酔って部下を処刑しかけたことまであったため「酒の席で出した命令は無効とする」というお触れまで出している。
口の悪い後世の人間に、「晩年の失態はアル中が原因ではないか」という説まで出されるほど。

北方三国志では独自の解釈が取られており、天下への野心を持っていない人物として描かれる。
呉は呉で、魏は魏で、蜀は蜀で、それぞれ別々に繁栄していけばいいではないかという思想を持っており、
これに関しては賛否両論。

余談として、中華民国を建国した孫文は末裔に当たるという。

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