人物紹介 / 孫堅


孫堅

日本では名前の読みが次男の孫権と同じで紛らわしいことが知られている。
そのため、父親であることから「パパ」、字面から「堅いほうのソンケン」などと呼ばれることも。

曹操や劉備とは異なり出自のはっきりしない人物で、正史でも「恐らく孫武の末裔なのだろう」と書かれる程度に留まる。
瓜商人の孫鍾という人物の息子だったという説もあり、少なくとも名門の家柄ではなかったようである。
にもかかわらず黄巾の乱を始めとした数々の反乱討伐に従事し、その抜群の功績で長沙太守の座に就いたという。

やがて董卓が台頭し、その横暴に対抗するため反董卓連合が結成されると、孫堅は不仲だった荊州刺史の王叡を攻め滅ぼすなどしつつ北上。
滅ぼした勢力の軍を吸収してより精強な軍団となり、当時屈指の勢力を誇った袁術に謁見した。
強力な後ろ盾を得た孫堅は華雄を撃破、董卓に洛陽からの撤退を決意させるほどの猛威を振るう。
演義では袁術が兵糧支援をケチったため敗れるという場面があるが史実ではなく、正史では袁術と孫堅の関係は特に悪化しない。
その後、袁紹と袁術が対立し反董卓連合が瓦解すると、孫堅は袁術の命令と支援を受けて王叡の後任となった劉表を攻撃。
劉表配下・黄祖との戦いを優位に進めながらまさかの戦死を遂げた。享年37。

史実では漢への忠誠心が高かったとされており、董卓が和睦の使者として遣わした李傕に対し
貴様ら漢王朝に背く悪逆無道の輩を皆殺しにしなければ、俺は死ぬに死ねない
と痛烈に批判した上で和睦を拒否したという逸話がある。
孫堅=漢の忠臣というイメージは後世においても根強く、
正史の注に書かれる伝国の玉璽を拾ったという説について、裴松之は
孫堅ほどの忠臣が玉璽を隠し持つはずはない」という根拠で強く否定している。
実際に孫堅が忠義の男であったかは意見が分かれるところだが、
反乱討伐時代、涼州戦線で轡を並べることになった董卓の横暴さに憤慨して当時の上官に処刑を進言したという逸話があり、
少なくとも大の董卓嫌いであったことは確かなようだ。

なお孫堅の最期については諸説入り乱れており、正史では矢による射殺とされるが、
これも史書によって単独行動中に暗殺されたとする説と、撃退した黄祖を深追いしてしまい伏兵に射られたとする説が存在する。
日本では演義および吉川版・横山版の「黄祖配下の武官・呂公による落石の罠にかかった」というものが有名だろう。

まさに己の武勇のみで伸し上がり一軍閥を築いた傑物ではあったが、
一般的なイメージとは違い、存命中に袁術配下の立場を脱することはできなかった。
独立勢力化、そして建国といった覇業は息子たちによって成し遂げられることになる。

孫権が皇帝に就くと、武烈皇帝の諡を贈られている。

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