流浪時代の劉備の外交官役として活躍した人物。
正史では劉備が陶謙から徐州を譲り受ける前後、鄭玄に推挙されて文官として仕えたとされる。
鄭玄は盧植とも同門だった学者であり、何進や袁紹と言った当時の雄が手元に迎え入れようとしたほどの名声があった。
もちろん当人の実力もさることながら、その鄭玄の弟子であった・鄭玄直々に推挙されたというブランドが孫乾最大の武器であり、
その名声も生かし、共に当時の段階では劉備より遥かに格上の群雄であった袁紹・劉表との交渉を見事成功させている。
劉備が劉表の元に身を寄せているとき、劉表から袁尚に宛てて
「(袁家兄弟の争いについて)劉備や孫乾らと話し合うたびに心を痛めている」
との手紙が送られたと言われており、劉表からも信頼を得ていたこと、劉備軍の幹部格と認識されていたことが窺える。
劉備が劉璋を破り入蜀に成功すると、麋竺に次ぎ簡雍と並ぶほどの厚遇を受けるが、程なくしてひっそりと世を去っている。
(この厚遇や知識人としての経歴などを見る限り、正史では麋竺共々、名目上は関羽や張飛よりも格上とされていたと思われる)
なお、正史で彼が明確に外交活動をしているのは袁紹・劉表の元に身を寄せる時の2回のみである。
演義では使い走りのようなイメージだが、実際の孫乾は初期劉備軍トップクラスの知識人として、
ここ一番の重要な交渉で使者を務める切り札的存在であったのかもしれない。
演義を筆頭とした創作各種では、何かと武に偏りがちで人材不足な初期劉備軍の便利屋・名脇役とされ、
麋竺ともども関羽・張飛らの相談役・参謀役として顔を出すことも。
横山版では、鎧兜に身を包み諸葛亮らの指揮を受けて武官として働く場面も描かれる。
コーエー(当時は光栄)の三國志シリーズ第1作ではなぜか県令時代の劉備に仕えていたりする。
演義を読む限りでは結構な存在感のある人物なのだが、三国志大戦シリーズではなぜか異様に登場が少なく、
アーケード版でのカード化はなんと旧作Ver1.0以来である。
なお日本語読みは「そんけん」が通例だが、「そんかん」も別に誤りではない。