人物紹介 / 曹髦


曹髦

曹丕の次男・曹霖の子にして魏王朝の四代目皇帝。
高貴郷公」という別名でもよく知られている。

曹芳が司馬師によって廃されると、郭太后の強い推薦で後任の皇帝に即位する。
その才覚は高く、鍾会から「才能は曹植に、武勇は曹操に匹敵する」と評されていた。

だがその学問を愛する程の才覚の高さとは裏腹に、性格は自身が記した文集の中に「頑固である」と述べている他、
臣下を招集して討論会を開く際には、遠方から速やかに呼び寄せる為に快速の馬車を支給した(宮中の職では無かった司馬望も
その討論会のメンバーの一人であり、彼の計略である「疾駆戦法」はこの曹髦の逸話をモチーフとしている模様である)という
逸話がある等プライドが高く、やや短気で性急かつ頑ななものであったという。

そしてその性格が、後の彼に悲劇を招く事になるのである。

即位して後、司馬師、司馬昭の傀儡という立場をよしとせず、司馬昭を晋公に封じたその年にクーデターを画策する。
しかし計画を打ち明けた王沈、王業の密告で司馬昭の知るところとなり、賈充の軍勢と対峙することになる。
賈充の兵たちは皇帝に剣を向けることの恐れ多さからなかなか手を出せないでいたが、賈充が
お前たちを養ってきたのは、まさに今日この時のためだ。不問にするから安心しろ
と成済・成倅兄弟に告げたことでその成済・成倅兄弟に殺害された。
因みに賈充はその後、即座に「不問」を取り消して曹髦を弑逆した罪を成済・成倅兄弟に全て被せ、彼らを含む三族を処刑している。

陳寿は立場上「司馬昭が皇帝を弑逆した」と書くわけにも行かないため彼の死については簡素な記載しかせず、
詳細は裴松之の注という形で書かれることとなった。

因みに前述の「高貴郷公」という別名は皇帝に即位する前に封じられた名であって諡号では無い。これは、

「曹髦は酷く道に外れた性格で、郭皇太后の諫めや司馬昭の弁護にも応じず、遂には郭皇太后を暗殺しようとして失敗。
更には兵を率いて皇太后と司馬昭を襲撃しようとしたものの、太子舎人の成済が司馬昭の命令に背いて勝手に応戦して
曹髦を討ってしまった」

という、曹髦の郭皇太后暗殺未遂と云う罪の内容が含まれる顛末が記された司馬昭の上奏文が認められ、
曹髦は「国家を危機に陥れた君主」と見做されて皇帝の位から廃され、諡号を送られる事も無く葬られた為である
(因みに裴松之によると曹髦が弑逆された当日に曹髦が郭皇太后に近付こうとしたのは事実ではあるものの、それは司馬昭の
甚だしい専横や数々の悪行を郭皇太后に告げる為だけであり、郭皇太后暗殺未遂という罪は単なるでっち上げに
過ぎないものとしている)。

尚、彼には子供がいたという記録は無いものの、唐の玄宗の時代に活躍した画家・曹覇は曹髦の子孫と称している
(作品は現存していないものの、曹髦自身も絵画を好み、その達人として称えられている)。

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