曹操の八男で、母親は側室の環夫人。
曹操が孫権から贈られてきた象の重さを知りたくなり周囲の臣下に訪ねた所、
「象を船に乗せてその状態の水面に印をつけた後、
一度象を降ろして水面が同じ高さになるまで重石を積み、重石の重さを測ればいい」
という、アルキメデスの原理を利用した測定法を思いついている。
この天才少年を曹操は溺愛しており、病で危篤に陥ると普段は相手にもしていない祈祷師に祈らせるなど、
なりふり構わず回復させようとするが、その甲斐もなく病死してしまっている。
また、曹沖が病に罹る少し前に曹操は神医・華佗を処刑してしまっており、そのショックで病死したとも、
華佗を殺したことで治せるものがいなくなり、曹操は華佗を殺さなければ良かったと後悔したとも言われている。
曹丕にとっては後の曹植以上に後継者としてのライバルであり、死後に曹操が
「倉舒の死はわしにとっては不幸だが、お前にとっては幸運だ」
と皮肉ったという逸話が知られている他、曹丕自身も皇帝に即位した後
「兄(曹昂)が生きていても限界があっただろうが、倉舒が生きていたら私は皇帝になれなかっただろう」
と述懐したという。