演義では辛毘とも表記される政治家。辛評の弟、辛憲英の父。
はじめ兄に従って袁紹に仕え、袁紹没後は袁譚派に所属。
袁譚の命により曹操との和睦交渉を担当し、これを成功させるという功績を立てている。
辛評の家族を処刑している審配とは犬猿の仲で、曹操ははじめ審配を助命しようとしていたが辛毗は断固として処刑を主張。
審配もまた降伏するつもりが無かったため、曹操は改めて審配を処断した。
以後は曹操に仕えて文官として活躍。魏王朝が成立すると侍中にまで出世している。
曹丕・曹叡にすら堂々と意見して退かない硬骨ぶりを度々発揮しており、
曹叡の宮殿造営を強く諫めた時は実質上の左遷を喰らっているが、それでも意見を曲げず諫言を続けたという。
諸葛亮が五丈原まで進出してくると、司馬懿を筆頭とした将軍・武官たちは断固として抗戦を主張。
これに対して曹叡は、迂闊な出撃を抑止しようと辛毗を大将軍軍師・使持節に任命して派遣。
すると司馬懿たちはみな辛毗の言う事を聞いて慎んだと言い、かの司馬懿にすら一目置かれていたことが窺える。
没後、粛侯の諡を貰っている。
演義ではその硬骨ぶりが遠く蜀の諸葛亮の耳にまで届いていたようで、最後の見せ場とも言える五丈原の場面がさらにクローズアップ。
諸葛亮は司馬懿を誘い出すため挑発を繰り返したがうまくいかず、「鉞をかついだ老人が一人で魏軍の前に立ち塞がり、進軍を押しとどめています」との報告を聞くと、
諸葛亮は「その老人は辛佐治だ」と嘆息、魏軍は決して挑発に乗らないと悟る、という場面が描かれている。