曹操に仕えた時期は定かではないが、史書に名がでるのは赤壁の頃から。
赤壁の敗北により呉に合肥まで攻め込まれ危機に陥ると、呉軍に偽情報を流して撤退させ、合肥を守り抜いている。
その直後に曹操が淮南の民を自領に移住させる計画について尋ねてきたのでこれを却下する。
しかし曹操が計画を強行した結果淮南の民は呉に逃げ込んでしまったため、これを期に重用されるようになる。
曹叡没後、司馬懿と曹爽の間で政争が起こると司馬懿に就き、曹爽の投降に尽力する。
曹爽には助命の約束をしていたが、司馬懿が処刑してしまったためこのことを気に病んで程なく死去する。
フレーバーテキストに書かれる「粗野な面」だが、
大の酒好きで酔って暴れたり、面会に来たものを門前払いにしたりしていたため人望は無かったという。
後世に知られるエピソードの一つとして、時苗という名士を門前払いにして恨まれた話がある。
当時、名士が訪ねてきた時はアポ無しでも面会するのが常識だったが、泥酔を理由に追い払った事で恨まれ、
時苗は木の人形に「酒徒蒋済」と書くとこの人形に矢を射かけるのを日課にするようになったという。