人物紹介 / 少帝


少帝

「少帝」とは本来、当時の権力者の都合などによって若くして廃位あるいは殺害された皇帝を指す呼称であり、固有名詞ではない。
しかし三国志で「少帝」と言えば、大抵の場合は後漢王朝13代皇帝・劉弁のことを指す。
中国史上では他の少帝との区別のため、諱を併記して「少帝弁」と表記されることが多い。
(三国時代では他に、曹芳・曹髦・曹奐をまとめて魏の三少帝と称することもある)

霊帝・劉宏と何皇后の間に生まれた子。霊帝が崩御すると13代皇帝として即位する。
演義での描写により幼いイメージが強いが、実際には即位の時点で少なくとも13〜14歳で、劉協(献帝)よりも5歳以上年上であったとされる(17歳説もある)。
董卓に「劉協の方が聡明である」とされて廃位されるなど、君主として弟より劣るという扱いをされがち。
しかし実際のところはそもそも伯父・何進の傀儡であり、また在位期間も僅か半年足らずであったため、本人の能力は未知数。

演義では、献帝こと劉協よりもわずかに年上の幼い皇帝として描かれる。
劉協の聡明さを引き立てるためか、吉川版・横山版を筆頭とする演義準拠の創作では宦官誅殺事件の際に張譲に伴われて脱出、そして董卓率いる西涼軍に遭遇するのだが、毅然とした態度を見せて董卓をも感服させる劉協とは対照的に、一貫して泣きじゃくるばかりで状況の説明すらも出来ないという描写が多い。
(「爆風三国志 我王の乱」「曹操孟徳正伝」など、曲がりなりにも成人男子として描かれる作品でもそうした描写)
1990年以前の判の横山光輝版「三国志」においては、董卓に「ブタ殺しの血が流れる」などと酷評されている。
(後の判では差別表現を避けるため「何進の血が流れる」に修正されている。)

廃位後は弘農王に封じられるが、董卓が長安へ遷都するにあたり身柄を反董卓連合軍に攫われ擁立されることを懸念すると、董卓の命を受けた李儒によって毒殺されている。
演義では母の何太后ともども、李儒に強要された毒杯を拒否して高楼から突き落とされるという悲惨な最期を描かれ、董卓の残虐性を際立てる。

諡号は弘農懐王。字面の通りこの諡は皇帝ではなく一段下の王止まりであり、後漢の正統な皇帝としては認められなかったことになる。
後に曹操が劉弁の墓の前を通りがかった時、傍に従っていた配下に皇帝陵として参拝するかどうか尋ね、配下に「皇帝とみなされていないので不要です」と返答されるという逸話が残っている。
後世の史書に記される後漢王朝の系図にも、劉弁の存在が省かれているものが存在するなど、生前のみならず没後の扱いまでひたすら不憫な人物である。

コーエーテクモ(旧光栄・コーエー)の『三國志』シリーズでは、プレイの展開によっては董卓による廃位・暗殺を発生させないことも可能。
しかしその場合でも献帝に代替わりさせるためか、実際の没年を過ぎると重い病を患い、あっさり死没あるいは退位してしまうという扱いになっていることが多い。やっぱり不憫である。

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