人物紹介 / 諸葛瞻


諸葛瞻

諸葛亮の長男。諸葛亮が40半ばになってから生まれた男児で、待望の跡継ぎと言える。

幼少の頃から聡明さを見せてはいたものの、父からは「早熟過ぎて大成しないのでは」と心配されていた。
そんな心配をよそに長じてからも実力を見せたのだが、周囲は彼に父・諸葛亮を重ねていたところがあり、
慶事が起きると「諸葛様のおかげだ」ともてはやし、実力以上に評価されていた節がある。

261年には平尚書事になり国政に携わる重臣となるが、この時の朝政は既に黄皓による専横がされていた。
これに対して諸葛瞻は毅然として対抗・・・することは無く、これと言った功績もない。。
後に黄皓は北伐を続ける姜維の更迭を目論むようになるが、諸葛瞻はこれに同調していたとされ、
一説には姜維を更迭し閻宇を後任に立てるべきと提案したのは諸葛瞻であるとも言われている。

姜維が鍾会と対峙している間に鄧艾が間道を通って成都に攻め込むと、劉禅の勅命で出陣。
鄧艾の兵は少数で、更に道なき道を通って消耗していたものの、慎重策だったのか
攻勢に出ようという黄崇の意見を却下して迎撃作戦を取り、綿竹関に籠城する。
一度は攻撃を防いだものの、二度目の攻撃で敗北。
鄧艾は琅邪王に封じるという条件で降伏を薦めたがこれを蹴り、戦死している。
諸葛瞻が敗れた結果、鄧艾によって成都が包囲されて劉禅が降伏。
蜀の滅亡を決定付けることになってしまった。

後世の歴史家からも父の補正か、あるいは国難に殉じた忠義を評価されたのか、それほど酷評される事は少ない。
正史での評については、作者である陳寿が諸葛瞻から恥辱を受けたことがあり、それを根に持って厳しい評価をされたとの説もある。
しかし実績を見ると、政治では黄皓による専横を全く咎められず、軍事では少数の鄧艾に敗北するなど、散々たるものであり、
数少ない記録は私党を組んで争ったり、姜維の北伐失敗を(自分の事は棚上げで)非難するなど、お世辞に評価しがたいものばかり。
陳寿の評も私怨ではなく、的を射た評なのかもしれない。

ゲーム『三國志孔明伝』では、物語の途中で産まれ、孔明が物語の折々に彼をどう育てるかを決め、
その結果として終章で参戦する事となる。
コンシューマ版では第一章での行動によって仲間に加わる陳到と顔グラフィックは一緒にされる(ちなみにGBA版でも一緒)。

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