周瑜の娘で、孫登の妃。
『江西吉安周氏族譜』という書物に「むかし、周胤(周瑜の次男)公の妹・徹がおり、皇太子孫登の妃であった」と書かれたことから、
周徹という名であったとする説が存在する。しかし他の家系図では周瑜の息子の名になっているため情報は錯綜している。
自身は孫権の息子に嫁ぎ、また長兄の周循が孫権の娘である孫魯班(大虎)を娶っていることから、
周瑜亡き後も孫権は周瑜の一族を重視していたことが伺える。
孫登の妻には芮玄の娘という女性もいて、どちらも正室として迎えられたことが記録される。
周瑜の娘の成婚は225年。芮玄の死去が226年のこと。
芮玄存命時に芮玄の娘の成婚があったため、周瑜の娘が最初の妃であったと考えるとかなりの短命に終わったことになる。
それ以前に周家と孫家の姻戚関係は事実上成立しており、一方で孫家と名士の芮家とはなんの繋がりもなかったことを踏まえると
芮玄の娘が前妻、周瑜の娘が後妻と見たほうが寿命の面でも無理がないかと思われる。
かの美周郎の娘という大変に恵まれた出自を持ちながら、
孫呉後期があまりに地味かつ泥沼なためか孫尚香や関銀屏のような民間伝承や創作での味付けがあまり見られない人物。
そのため後世の呼称もあまり安定せず、周氏あるいは周妃と表記されていることもある。