人物紹介 / 樹機能


樹機能

晋王朝成立期に猛威を振るった、「河西鮮卑」とも称される禿髪部の族長。
正確なフルネームは禿髪樹機能と表記し、禿髪が姓・氏族、樹機能が名である。

禿髪部は元々、鮮卑の一部族である拓跋部から離脱・独立した部族。
後漢〜三国時代の異民族の例に漏れず、禿髪部も漢民族の王朝に対して服従と半独立とを繰り返す立場にあったようで、
魏末期には蜀征伐の戦力を求めるトウ艾に応じて魏の領内に移住している。
しかし後に成立した晋王朝は異民族に対して厳しく圧迫・搾取する政策を採ったため、異民族たちはこれに強く反発。
禿髪樹機能が近隣の異民族を糾合して作り上げた連合軍は、刺史として派遣されていた胡烈・牽弘を討ち、雍・秦・涼三州にまたがる大勢力にまで発展した。
杜預・賈充らの討伐軍もこの勢いには手を焼き、皇帝・司馬炎をして「呉・蜀の害より甚だしい」とまで言わしめた。

その後一度は文鴦によって鎮圧されるも、文鴦が司馬炎に嫌われて左遷されたのを機に禿髪部は再度決起。
最終的には馬隆によって壊滅的な大敗に追い込まれ、樹機能も部下の裏切りで殺害され禿髪部の勢力は衰えてしまうのだが、
樹機能の蜂起から反乱の終息まで、期間にしてなんと10年もの年月を要している。
当然ながら晋軍は人的、軍事費的にも膨大な損害を出してしまっている。
正史に伝が無く演義でも扱われないため、三国志末期の出来事としてはあまり知名度が高くないが、
成立したばかりの晋王朝にとって、呉に匹敵するかあるいはそれ以上の脅威だったかもしれない、大規模で長期的な乱であった。
隋以降の中国の統一王朝が魏以前の少数民族の圧迫と懐柔、半独立を巧みに使うになったのは樹機能の乱とそれによる膨大な被害が原因と考えている中国史学者は少なくない。

この後、五胡十六国時代後期に当たる380年代に華北〜涼州近辺が乱れると、禿髪部はこれに乗じて勢力を回復。
そして397年には、族長である禿髪烏孤が大単于・西平王を自称し事実上の独立を果たした。
中国史上ではこれをもって南涼の成立とし、樹機能の乱から100年以上の時を超え、ついに禿髪部は独立王朝を建国したのである。

南涼そのものは辺境の弱小王朝に過ぎなかったため20年足らずで滅亡してしまうが、
中国史上初めて現在の青海省近辺に勢力を置いたため、シルクロードの発展に貢献。
また最後の南涼王の子に当たる禿髪破羌は、南涼の滅亡間際に北涼、そして北魏に亡命。
北魏の皇族はかつて禿髪部と同一であった拓跋氏であったため、「拓跋と禿髪は同じからなる氏族」として、源姓を与えられ厚遇された。
「源賀」と改名した禿髪破羌は北魏の軍人・政治家として大活躍、その一族は北魏の重鎮として大いに栄えた。

この禿髪部の源氏の活躍と栄達は遠く日本にも響き渡り、
後の天皇はこれを由来とし、子や一族に臣下の礼を取らせる時に「皇室と源を同じくする」との意味で源姓を与えたという。
よって嵯峨天皇を始め、清和・村上・宇多等の諸天皇から派生した源氏は全て、元を辿れば禿髪部の源氏の栄達に肖った姓であるとも言われる。

なお禿髪部という現代日本人から見たらあまりにインパクトのある部族名であるが、
これは拓跋部から離脱・独立して派生した事から音の似た字を当てられているとの見方が強く、
決して本作のカードのように彼らがスキンヘッドであった事を示すものではない…はずである。

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