朱然の子。施績自身は最初から朱姓として生まれており、コーエーの三國志シリーズなどでも朱績として登場する。だが孫亮の代で改姓した。
改姓のきっかけは父の朱然がもともと施姓だったことにある。
朱然は朱治の姉が嫁ぎ先で産んだ男子で、当時後継者のいなかった朱治が施然を養子として迎えた(ここで施然→朱然となる)。
しかしその後、朱治に実子・朱才が生まれたことで家督継承権はそちらへ移ってしまっている。
そのため朱然は義父の朱治の死亡時に改姓を願い出たのだが、当時は孫権の意向で却下された。
この改姓は父の念願が30年越しで叶ったものである。
父が高官についていたことから自身も高位に取り立てられ、義叔父・朱才の死後はその軍勢も受け継ぎ異民族対策に当たる。
二宮の変においては孫覇との交流を拒否しており、孫和派の人物としてその名を知られている。
また、二宮の変で国力が衰えたことに乗じて魏の王昶が攻めてくると迎撃するも一度は敗れている。
江陵に籠城を続け魏軍の士気が衰えたところを追撃して撃退したが、諸葛融が援軍をサボったため王昶を取り逃がしている。
孫綝が国政を牛耳るようになると、国内の動揺に乗じて魏が攻めてくることを危惧して独断で蜀との連携を図る。
蜀の滅亡後も粛清を恐れてか独断で動くことが多く、上官からは嫌われていたという。
また、娘の施淑女は出家して仙術を究めたとされており、『真誥』にその名が記されている。