司馬懿ら「司馬八達」のひとりで三男。
当初は曹植に仕えており、奔放な面の目立つ曹植を度々諌めたという。
そういった経歴ながら曹丕が跡を継いだ後に冷遇されることもなく、曹操の死をあまりにも嘆く曹丕には
「あなたは天下の規範となられる御方だ。小人のように激しく嘆くような真似をするな」
と、同じく嘆いていた諸将には
「今は魏王が死んで混沌の極みにある状況なのだから、嘆き悲しんでいる暇はありませんよ」
と諌めている。
曹芳の代になって司馬懿が事実上魏のトップに立つと合肥新城の戦いに20万を率いて出陣するなど厚遇されるが、
一方で魏王朝に対する忠義も忘れておらず、曹髦が司馬家打倒の兵を上げて返り討ちに遭うとこれを嘆いたり、
曹髦を庶民扱いで埋葬しようとする司馬昭に敢然と反対し、王侯として葬る許可を取り付けたり、
曹奐が司馬炎に禅定した際にも「臣は最期まで魏の家臣です」と涙ながらに謝したりしている。
北宋の政治家で当時の保守層・旧法党のトップにして『資治通鑑』を編纂した歴史家でもある司馬光は子孫にあたるという。