「才覚では弟の司馬懿に及ばない」と評されてはいたが、代わりに、裏書きの薬のエピソードに代表されるような、他者への思いやりを示す逸話がいくつも残っている。
司馬懿をして「私は亡き兄に人格者としては及ばなかった」と言わしめた。そりゃそうだろとか言わない
彼が治める地域では厳格な刑罰のない寛容な政治が行われ、民衆は法をよく守り、また民衆が司馬朗の政治を積極的に手伝うことすらあったという。
反董卓連合軍が彼の故郷の河内に駐屯することになったとき、戦争が長引き統制が取れなくなった兵士たちによって略奪が行われると予測した司馬朗は、
親族の力を借りて故郷の人々を他の地域に避難させる手筈を整えたという。
(結局故郷を捨てたくない多くの住民が司馬朗に従わず、彼の予測通り兵士たちによって住民の半数が虐殺されてしまうのだが…)
なお司馬朗・司馬懿の下には司馬孚などまだ六人の弟がおり、「司馬八達」と称されるほど全員が才気に溢れていたという。