司馬懿の九男。西晋滅亡の原因となった八王の乱における八王の一人。
母は司馬懿の側室・柏夫人。
母が晩年の父のお気に入りであり甘やかされて育ったのか司馬懿の子であるにも関わらず学問を修めず、字の読み書きもできない有様だった。
それでも司馬懿の一族ということで魏王朝の頃から爵位を賜っていた。
甥の司馬炎が晋王朝を興すと当初は琅琊王に、さらに後日趙王に封じられている。
司馬衷の代になると征西大将軍・都督雍梁二州諸軍事として関中の守備を任される。
しかし無学な彼にまともな統治ができるわけもなく、異民族の反乱を招いた上にロクな対処もできなかった。
結局兄・司馬肜と交代させられる形で解任されたが、皇族ゆえか処罰されないどころか中央で車騎将軍に任じられている。
中央入りした後は、当時権勢を振るっていた賈南風に取り入って専横に加担するも、自身が上り詰める機会を伺っていた節がある。
そして賈南風をけしかけて太子司馬遹を殺させるとこれを大義名分としてクーデターを起こし、賈氏一族を粛清する。
功績により相国・侍中に就くがこれで満足せず帝位につく野心を抱き、ついには司馬衷に譲位を迫り皇帝となる。
皇帝としての統治はろくなものではなく、爵位は乱発する、試験なしで官吏は全員登用すると言った人事で国庫は疲弊した上、
命令も朝令暮改だったためそこらの百姓ですら早期の滅亡を予見するほどであった。
結局は斉王司馬冏・成都王司馬穎・河間王司馬顒の反乱により帝位を廃された上で処刑される。
彼の帝位は僭称であるとされ、正史である晋書に本紀は立てられず趙王として列伝されている。
死後に彼の登用した文武百官が免官されると、中央の殆どの役職が空位になってしまい行政機能が麻痺してしまった。
ちなみに前述の通り文字の読み書きができなかったため、関中に赴任して以降は実質的に側近・孫秀の傀儡状態だったともいう。
一方で決して非を認めない異常な自尊心の高さを持ち、自身の統治を密告した者や出世を妨害した張華などには必ず報復した。
処刑される間際にも、孫秀が自分を誤らせたと何度も慟哭したという。
しかし司馬倫は皇族や名族でなければ出世の難しい貴族社会となりつつあった晋の中で、家格の低い孫秀を重用し帝位に就いてからは百姓や奴隷の身分であろうと上述のように見境なく登用していた。
これは既存の価値観を否定するものでもあったが、同時に自分が仕えている者が政権を取れば出世できるという歪んだ価値観も生んでしまったようである。
結果として八王の乱は更にエスカレートし、出世競争に横入りする形になった陸機の死の遠因にもなっている。