人物紹介 / 司馬炎


司馬炎

司馬昭の長男にして三国時代で最終的に統一王朝となった晋の初代皇帝・武帝。

父が晋王に封じられると、弟・司馬攸が伯父・司馬師の養子となっていたことから太子に任命されそうになるが、
重臣らの反対もあり、無事に太子の座につく。
父の死後に晋王を継ぐと、同年のうちに元帝・曹奐の禅譲を受けて晋王朝を成立させる。
279年には杜預らの進言を受けて賈充・楊済を大将として呉討伐の詔勅を発し、ついに三国統一を成し遂げる。

晋王朝は魏が皇族を冷遇したことで司馬懿の台頭を許した失敗を踏まえ、皇族を優遇する政策を取っている。
その一環として一族を各地の王に封じ、皇族が十分な権力・兵力を持てるように配慮していた。
しかし皇帝の能力や一族の結束に恵まれていれば機能したかもしれないこの政策は、
現実には前述の実弟・司馬攸を中央から遠ざけてしまった事などから一族の関係に亀裂が入り、
また跡を継いだ司馬衷も暗愚で指導力に欠けていたため、結果的に八王の乱の原因のひとつとなってしまった。

司馬懿から繋がる乱世の傑物の血ゆえか、一人物としては剛胆な者を好む傾向があったようで、
平民出身の降将に過ぎない吾彦を取り立てたり、側室の中でも皇帝をも恐れぬ言動を繰り返した胡芳を特に気に入ったりしている。
『晋書』劉毅伝によれば、司馬炎は司隷校尉の劉毅と言う者に「自分は漢代のどの皇帝に匹敵するか」と問い、
「(暗君である)桓帝・霊帝並」と答えられたという。
さすがの司馬炎も引っかかったのか「少し厳しすぎないか」と難色を示したが、劉毅には
「桓帝・霊帝は売官の利益を国庫に入れたが、陛下は自分の懐に入れている。桓帝・霊帝以下ですな」
と返されてしまった。
司馬炎は大笑いし、「桓帝・霊帝にそんな意見を言える者はいなかったが、余には直言の士がいる。彼らとは違う」と返したという。

かなりの好色でも知られており、晋が成立するや後宮に五千人の女性を囲った上、
呉を滅ぼした後は孫皓の後宮にいた五千人も引き取り後宮には一万もの女性が住まう状態となった。
増えすぎて夜の相手を考えるのも面倒になり、羊の引いた車に乗り止まった部屋で一夜を過ごすようになっている。
これに気づいた女性たちは部屋の前に笹を挿し、塩を盛って羊を止まりやすくするよう仕向けたという。
このエピソードが現在も飲食店で客を呼ぶための願掛けとして行われる盛り塩の由来とされている。

旧三国志大戦ではVer3.5において、まさかの金田一少年として登場したが、
好色つながりならば納得できる配役ではある。

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