袁紹配下の武将で、袁紹軍では珍しい涼州の出身。
当初は韓馥に仕えていたが反逆し、返り討ちにされかけたので袁紹の元へ落ち延びたという経緯を持つ。
その出自から羌族の戦術に通じており、界橋の戦いでは先鋒として盾を構えた歩兵と強弩隊を率いて、
公孫瓚率いる白馬義従を打ち破り厳綱を討ち取る活躍を見せる。
さらに公孫瓚軍に囲まれ危機に陥った袁紹も助けているが、公孫瓚が易京に籠城したため兵糧が尽きて敗れている。
その後、界橋の戦いでの戦功を鼻にかけ傲慢に振る舞い、軍令無視を繰り返したことで袁紹の怒りを買い処刑されたとされる。
ただし前述の通り涼州の出身だったため、主力である冀州の人間との折り合いも悪かったのではないかとも推測できる。
演義では界橋の戦いで厳綱を斬った後で、趙雲にアッサリ討ち取られるちょい役にされている。