皇甫嵩の叔父にして張奐、段熲と共に讃えられた武将。
張奐、段熲、皇甫規の三人は全員涼州の出身で字に「明」がつくことから「涼州三明」と呼ばれた。
順帝の時代に西羌の反乱で馬賢が征西将軍に任命されると、その用兵の拙さを見て敗北を予見し、
安定太守に訴えたところ実際に馬賢が敗れたため、兵800を率いて出撃し戦果を上げる。
その後も羌族との戦いで戦果を上げ、度遼将軍に二度任命されている。
また清廉な人物だったようで、地元の汚職役人を罷免したり、外戚として専横を奮っていた梁冀をも非難したことがある。
その性格から宦官と交流を持つことも嫌ったため、度々讒言されて罷免されたり何度も命を狙われたりしたという。
ついには投獄されたこともあるが、その清廉を慕う人も多く、彼らの働きかけで罪を許されている。
その実力から老齢になっても引退を許されず、洛陽へ召喚され赴く途中で病没するまで現役であり続けた。