「コウソンタク」と読まれることもある遼東の群雄。
公孫姓ではあるが、公孫瓚とは別の一族。
父・公孫延が役人に追われることになると逃げた先で小役人に就く。
太守に気に入られて尚書郎、冀州刺史と出世するが讒言でクビになるものの、徐栄の推挙で遼東太守に就任する。
出自が名門ではなかったため多くの地元名士からは軽んじられていたが、従わぬ者に対しては罪を着せて迅速に討伐するという鮮やかかつ苛烈な手法を用い、100以上もの家を滅ぼし一代にして支配体制を築き上げた。
この頃、中原は董卓を中心とした動乱の真っ只中にあったため、公孫度は乱世に乗じて独立の野望を抱くようになり、亡き父に勝手に建義侯を追贈してしまったり、漢の後継を気取って劉邦・光武帝の廟を建立したりしている。
もちろん野心ばかりでなく実力も確かで、その後も高句麗、烏桓を制して功績を上げており、董卓が殺害された頃にはすでに半独立状態にあった。
曹操が献帝を奉じると武威将軍、永寧郷侯に封じられるが「わしは遼東の王である」として印綬は封印したという。