元は孫桓の父・孫河に仕えており、孫河の出世とともに引き上げられ陸遜と並び称される程となる。
孫権が車騎将軍に就くと孫権の直臣となり、武官としても活躍するようになった。
二宮の変では、自身が孫和の教育係でもあったこともあり、陸遜とともに孫和派となる。
孫和の正当性を述べた上で孫覇を夏口の指揮官として中央から遠ざけ、孫覇派の楊竺を追放するよう進言したのだが、
反発を食らって楊竺に讒言されるようになり、陸遜が処罰されると手紙をやり取りしていたことを理由に処刑されてしまった。
カード裏書のエピソードの際、「(救助した兵で)重くなって、この船まで転覆してしまうので止めて下さい」と部下が言ったのに対し、「それで沈むなら、共に沈むまでだ。助けずに良いわけがあろうか」と言い、救助を続けた。
彼の人柄が偲ばれる言動だろう。