蔡邕の弟子にして孫呉の二代目丞相。
陸遜や朱桓と同じく、呉の四姓と呼ばれる名門の出身でもある。
初代丞相であった孫邵が死去すると、孫権は群臣らが後任に推す張昭を差し置く形で顧雍を丞相に任命している。
丞相としては孫権を立てることに徹しており、献策が用いられれば孫権の手柄とし、却下されても他言しなかった。
しかしながら君主を立てるとは言っても決してイエスマンではなく、
物腰は穏やかながら正しいと思うことは遠慮なく意見したと伝わり、孫権の考えに反対したり諫言した記録や逸話も残る。
公正さにも定評があり、孫権に阿って政治を乱した呂壱が逮捕されると取り調べ担当官が呂壱を罵倒するが、
「法に外れたことをしてはならない」とたしなめている。
当時としてはかなりの長寿であり、20年近くも丞相を務め上げた末に在任のまま76歳で死去。
後任には陸遜が就いたが、陸遜は荊州駐屯を主任務としていたため中央は人臣のトップが留守と言う事態になり、水面下ですでに始まっていた権力争いが加速・表面化。やがて孫呉は二宮の変へと突き進んでしまう。
孫権が年老い諸豪族の動向が不穏になる中、顧雍の存命中は前述の呂壱の暴走などがあっても大きな政変には至らなかったあたり、その絶大な影響力・政治力が窺える。
酒好きな孫権の配下にあって、酒を嗜まない人物であったとも伝えられる。
孫の顧譚が孫権との宴席で酔って調子に乗りすぎた際には翌日に顧譚を呼び出し、散々説教した挙句2時間以上も立たせてようやく退出を許したほど。
そのあまりの厳格さから、他の群臣は彼がいると宴会の席ですらハメを外せなくなったため、
孫権に「顧公が同席すると酒が楽しめない」と愚痴られた、などという逸話も。
何かと良くも悪くもアクの強い人物が多い孫呉群臣の中で、逆にその一貫した堅物ぶりで個性を放つ名政治家である。