後漢の第14代皇帝にして漢王朝最後の皇帝。本名は劉協、字は伯和。
蜀では曹丕が帝位を受け継いだ際に殺害されたとされており「愍帝」という別の諡を贈られている。
董卓、李傕、曹操といった時の権力者の傀儡ではあったが、
張譲に連れられ逃げた先で出会った董卓が下馬しないでいると董卓を一喝したり、
曹操が側近を自身の息がかかった者と総入れ替えすると、
「朕を大事に思うなら補佐して欲しい。そうでないなら退位させろ」
と言い、曹操をたじろがせたりするなど気骨のある面をしばしば見せている。
曹丕に帝位を譲った後は山陽公に封じられ、諸葛亮と同じ年に死亡している(ちなみに生年も諸葛亮と同じである)。
尚、蜀へ(劉備が皇帝を継ぐために)伝わった情報とは裏腹に山陽公に封じられた後も魏王朝に虐げられたということはなく、
皇帝専用の一人称「朕」を使うことを許されるなど、破格の厚遇を受けていたという。
これは当時の中華において、帝位の禅譲が神話上のものしか存在せず(殷・周・秦のどれも武力によって滅ぼされた)
歴史上の先例にされると曹丕ら当事者たちが分かっていた事情もあるだろう。事実、以後の禅譲はこの時を手本にした。
しばしば「曹丕に帝位を献上したので献帝」と揶揄されることもあるが、
「献」という諡号自体は「聡明である」という良い意味の諡であるため、そういう意味ではない。
なお、献帝の子孫とされるものが日本にも渡っており、征夷大将軍・坂上田村麻呂の氏族・坂上氏がその系譜であるという。
演義系の創作だと「なぜ曹操は献帝や漢の臣に暗殺されそうになりながら、献帝をひと思いに殺害したり、
帝位の簒奪をしなかったのか」というミステリーな部分で曹操との関係性が生まれ、
「曹操と後宮に入った王美人の間に生まれた子供である(兄の劉弁は何太后と何進との間に生まれた子供という噂がある)」
(曹操孟徳正伝)などのトンデモな設定で描かれることが多い。