後漢〜蜀漢の政治家。
毎月頭に人物批評を行ったことで「月旦評」という故事成語の元となり、若き日の曹操を「治世の能臣、乱世の姦雄」と評した学者・許子将(許劭)を従弟に持つ。
許子将の従兄には三世三公の三世代目となる許相がいたため、かなりの名族の出である。
許靖も若い頃から数々の名士と交流を持ち人物批評で名を轟かせていたが、許子将との仲は悪く、
許子将の妨害により職に恵まれない日々が続くと、馬磨きのアルバイトでその日暮らしをしていたこともあるという苦労人。
激動の乱世の中で一時は交州(現在のベトナム近辺)にまで避難するなど各地を転々としたが、
やがて蜀に落ち着いて劉璋に仕え、その後に蜀を奪取した劉備の配下となった。
仲の良かった王朗には「最も策謀に優れた人物」とまで言われるなど、決して無能な人物ではなかったようだが、
特にこれと言うほどの軍功や治績が残されているわけではなく、本人の事績という面では地味な存在。
しかし彼の真価は、若い頃から名士と呼ばれ続けた当代一流のインテリとしての名声にあり、
その名望は有力な人材に目の無い曹操が、許靖を配下に迎えるためにはるばる交州にまで使者を送ったほど(その使者が許靖を強引に連れて行こうとしたため失敗してしまったが)。
蜀を支配した劉備は当初、実力の伴わない人物と見ていたのか許靖の登用を渋っていたが、
法正に「高名な許靖を冷遇すれば、天下に『劉備は名士を敬わない奴だ』と思われてしまう」と諭されたため左将軍長史の官位を与えた。
(これは許靖の名声を利用して政治や人材登用をうまく進めようという法正の戦略であったとも言われる)
劉備が皇帝に即位すると司徒に任じられ、名実ともに蜀漢の重鎮となる。
すでに70歳を超えていたが人材を重んじ議論を好み、蜀漢知識人の長老的存在として諸葛亮にも一目置かれていたという。
後に費褘の後継として蜀の政務を任される陳祗を引き取って養育しており、次の世代にも影響を残している。
演義ではほぼ名のみのチョイ役に過ぎない人物だが、
『季漢輔臣賛』では、関羽や張飛をも差し置いて劉備・諸葛亮に次ぐ3番目に名を記されており、
史実ではまさに蜀漢屈指のカリスマであったと言える。