孫堅の代から仕えていた武将の中では特に長い間現役を務めており、夷陵の戦いにまで参戦している。
(この頃には程普や黄蓋はすでに死去している)
孫堅に従った当初は下級兵士に過ぎなかったが、その武勇を買われて取り立てられたとも言われており、
事実なら孫呉でも屈指の叩き上げと言える。
赤壁ではこれと言った武功の記録は見当たらないが、負傷兵と誤認されてトイレに放置されていた黄蓋を発見・保護するというちょっと変わった逸話が残る。
その後合肥の戦いや荊州の関羽討伐戦には参戦したという記録がなく、空白の十年と言える期間が存在する。
演義では夷陵での劉備迎撃に際し、年下で実戦経験の少ない陸遜の指揮に不満を持つという場面が描かれる。
見事劉備撃退に成功すると陸遜のことを認めるのだが、史実で数年後に死去してしまっているためか以後は出番がない。
韓当が没すると家督は韓綜という子が継いだが、韓綜は魏へと亡命して略奪と虐殺を働き、最後も魏将として諸葛恪に敗れ戦死すると言う不忠不肖の子だった。以後の子孫は記録がない。