人物紹介 / 関平


関平

正史では関羽の実子、演義では養子とされる関羽の長子。
実子であった人物をなぜ養子という設定に変更したのかは不明である。
(北宋の名将・岳飛の養子であった岳雲が後世の作品で実子とされるなど、逆のパターンはよく見かけるのだが)
一説には実の親子でもないのに最期まで運命を共にした忠誠心を際立たせるためとも言われる。
また、字も不明だが民間伝承において「坦之」、もしくは「定国」という字が付けられている。

演義においては、劉備の養子である劉封と養子コンビを組むことが多く、
夏侯惇や周瑜といった名だたる武将を相手に一歩も引かぬ活躍を見せる。
ちなみに劉封が戦う→押されてピンチに→関平が助けに入り形勢逆転、というのがお決まりのパターン。
完全に引き立て役扱いされている劉封の不遇っぷりが涙を誘う。
益州攻略戦でも劉備に従軍するが、龐統が戦死したため諸葛亮への使者として荊州に戻ることになる。
以降は荊州で、今度は関羽の副官のような立場へと成長。
そして樊城の戦いでは、あの満寵と互角の一騎打ちを繰り広げるなど、関羽の後継者として大活躍。
しかし直後、呂蒙の策により関羽と共に討死することとなる。

一方の正史はというと、
樊城の戦いでは関羽の子である関平も討死しました。以上。
これだけである。
実際のところ関羽の生活事情(荊州支配までずっと流浪)的に、成長した子が居るとは考えにくく
関平もほぼ初陣だったのではないかと思われる。
さらに言えば年齢不詳なので、実は関興の弟という可能性もありうる。
(関興は逆算すると当時18歳前後であり、関平が10代前半で初陣を飾ったと考えれば弟でも不思議はない)
ぶっちゃけ、関羽の死を彩るためだけの存在であり、人物象は無いに等しい。

ほぼ名前だけの存在だった関平に対して、
養子属性を付与し、劉封を引き立て役にすることで、武神二世と呼べるまでに演出した羅貫中の手腕は見事に尽きる。
演義での活躍から民間人気も高く、父とともに荊州で死んだこともあってか『関平太子』という名で周倉とともに関聖帝君こと関羽の脇神となっており、
日本の横浜を含む、世界各地の関帝廟でその姿が見られる。

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