人物紹介 / 関羽


関羽

劉備の義弟にして後の世で「武神」と呼ばれた男。
ただの通り名ではなく、中国史上で実際に「関聖帝君(関帝)」の神名を贈られ、今も世界各地の関帝廟に祀られる本物の英雄神である。

見事なあごヒゲをたくわえていたとされており、史実で諸葛亮が「ヒゲ殿」と呼んでいた他、演義では美髯公とも呼ばれる。
曹操の客将時代、ヒゲを美しく保つための秘訣として「冬場は凍らないように袋に包んでいる」と語ったことから、
後日曹操から錦の髯袋を賜ったという逸話もある。

関羽は武勇一辺倒ではなく、知力・教養と人格をも併せ持った人物として描かれることが多いが、
彼は当時の知識人のバイブルのひとつである「春秋左氏伝」を常日頃から愛読し、ほぼ暗誦できたと言われている。
机上の知識だけでなく、樊城の戦いにおいて関羽は機を見た用兵で緒戦を優位に進めており、
イメージ通り一軍の将に足る十分な知謀・統率力を備えていたと思われる。
しかし人並外れて文武に長けた彼とても完璧な人間ではなかったようで、
部下には優しいが同格以上の相手には傲慢であるという致命的な難点を持っていた。
荊州を任されるに当たって諸葛亮から「東は孫権と和せ」と言い含められていたにもかかわらず
関銀屏のフレーバーテキストに書かれている「虎の子を狗の子にやれるか!」という暴言で孫呉を敵に回した他、
糜芳、士仁らを軽んじていたことで彼らの反感を買い、自身の死と荊州陥落の原因にもなっている。
(最期に当たっては糜芳同様に付き合いの長い劉封にも援軍を断られており、ここにも何らかの確執があったであろう事は想像に難くない)
伝説的・超人的武人であるはずの関羽が自身の失態から敗戦を招いた事実は中国人にとって余程のインパクトだったようで、
日本で言う「油断大敵」「注意一秒怪我一生」の意味で「大意失荊州」という故事成語が現代まで伝わっている。

後世において関羽が称賛される最大の要因は、その律儀さにある。
一時は曹操に降るも劉備への忠義を貫き、曹操に対しても官渡で武功を立てるという恩返しで義理を果たしている。
後の王朝でも忠義の象徴とされ、北宋の時代に徽宗が「忠恵公」を追号したことを皮切りにどんどん位が上がっていき、
最終的には帝位に就いていないにも関わらず「関帝」の称号を得ている。
また、義理堅さから信用第一である商人からも崇拝の対象となり、現在では商売の神にもなっている。
中国人の関羽信仰・関羽人気は没後1800年を迎えようとしている今なお衰えることを知らず、
世界各地、チャイナタウン(中華街)のあるところには必ずと言って良いほど関帝廟あるいは関帝を祀る祭壇が存在するという。
また武勇の神様として、警察でも守り神にされており、マフィアの間でも守り神にされているのだからその人気は計り知れない。

彼が商売の守り神として崇拝される原型となった話も民間伝承に存在する。
関羽と同郷の王参という酒造りの名人がおり、関羽が大将になると出資をして貰い店を開くことになるが、同業者に酷い嫌がらせをされる。
関羽に相談した所店に対しての嫌がらせを止めてくれたため、王参は感謝して関羽の肖像画を店に飾る事にした。
そうした所店が繁盛したため、酒屋の守り神として称えられるようになったという。

また、三国志演義絡みの民間伝承にはこのようなエピソードも存在する。
「三国志演義」の初稿には、関羽が千里行の最中劉備夫人である甘夫人・麋夫人と(性的な意味で)通じていたという艶話的なエピソードが存在した。
関羽が編者である羅貫中の夢枕に立ち、「その下りを消してくれ」と懇願する。しかし羅貫中がそれを拒むと、関羽は青龍偃月刀で羅漢中に斬りかかった。
目が覚めた羅貫中は先程の夢の内容を思い出し、慌ててその下りを消したという。

ちなみにR関羽のCVを担当している安元洋貴氏は同じ三国志をモチーフにした「SDガンダム三国伝」でも関羽ガンダムの役を務めていた。

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