烏丸討伐よりの帰路で風土病により38歳で死去した。
その死を曹操は大変悲しみ、赤壁の戦いに敗れた際も「奉孝がいればこんなことにはならなかった」と言ったという。
その神算としては、曹操が袁紹との官渡の戦いに臨む際、孫策が北上する構えを見せたが
郭嘉は孫策の不用心な性格から暗殺されることを予見しており、実際その通りとなった。
袁紹の死後、即座にその息子たちを攻撃すると兄弟が団結してしまい苦戦する、放っておけば勝手に後継者争いを始めるので
その隙を突くべきと進言し、これも実際にその通りとなったところで袁兄弟の内紛に付け込んで曹操が勝利している。
敗れた袁煕と袁尚はその後、蹋頓→公孫康を頼って落ち延びる。
ここでも郭嘉は、北の果てまで追撃する必要はない、放っておけば公孫康は二人の首を持って我々に臣従するだろうと進言し、
またしてもその通りになっている。
今回の彼の計略名である「十の因果」とは、曹操が郭嘉に袁紹への対応を相談したところ、郭嘉は
「曹公には十の勝因があり、袁公には十の敗因があります。それは道・義・治・度・謀・徳・仁・明・文・武でございます。」
と答えたことに由来する。
陳羣のテキストにもある通り、頭は良いが品行方正な優等生というタイプではなかったようであり、
裴松之からは荀彧・荀攸よりは格下、程昱と同列という評価を下されている。